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左 / 1895年(1890年代)
大工町第八部消防組の人々(別雷皇太神境内)
場所: 元山町 カテゴリ: 景色 ライセンス: 出典「水戸市立図書館デジタルアーカイブ『水戸百年』・写真集「水戸百年」編集委員会」
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明治二十七年、消防法の改正で水戸市消防組ができた。人員は三百名。それが十一部に分かれ、第一部から第六部までが上市、第七部から第十一部までが下市組となっていた。その後消防器具の増加に伴って人員もしだいに増加し、明治末には四百六十六名となった。しかしそのころになってもポンプは依然として旧式な手押しポンプが各部に一台ずつの配置だったから、大火には間に合わなかった。大正六年、市内の有志がガソリンポンプ一台を市に寄贈したが、これが水戸市消防の動力化の初めで、自動車ポンプになったのは昭和に入ってからのことである。写真の大正時代の消防スタイルは、江戸火消しの姿からちょんまげを取っただけの、昔ながらの刺子(さしこ)に半纒(はんてん)。下は紺ももひきをはき、頭には刺子の頭巾をかぶり、これで火の中へ飛び込んだ。どの写真にも見える纒(まとい)は、もとは戦陣で本陣の目印にしたものだが、これが江戸時代から火消しの組のシンボルとなり、白い頭部を思い思いのデザインにして中に文字やマークを書いた。鎮火間近になると消し口の要路に立てたこの纒を隣家の屋根に立てて、消火の功を競った。
右 / 1841年(1840年代)
二の丸と三の丸の間に架かる大手橋
場所: 三の丸 カテゴリ: 景色 ライセンス: 出典「水戸市立図書館デジタルアーカイブ『水戸百年』・写真集「水戸百年」編集委員会」
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弘道館は徳川斉昭が藩士とその子弟の教育のために建てた藩校である。天保十二年(一八四一)の開校以来、明治五年の廃館まで三十二年間にわたり幾多の人材を養成した。当時は一万九千平方メートルという他藩に例を見ない広大な敷地をもち、学校御殿といわれた正庁を中心に、文館、武館を左右に配し、医薬、天文、暦数その他の館と付属の建物が立ち並び、さながら総合大学の偉容を示していた。ここで行われた教育は「学問と事業の一致」「文武わかたず」の理念を基調として、神道と儒教の思想を併せた独特のもので、この学問は水戸学と呼ばれて全国から注目された。明治元年の兵火で施設の多くを焼失したが、正門、正庁は戦災をも免れて当時の姿を今に伝えている。なお、明治五年から十五年までここに茨城県庁が置かれた。